「DEAR FRIEND」 誕生秘話

(雑誌「週刊明星」1990・6・28号 より。)

「中森明菜(24)復帰への協力助っ人は 歌手 兼 作詞家の 美人フリーター(23)」

 

『「LIAR」以来、およそ1年ぶりの新曲になる「DEAR FRIEND」は、アップテンポの明るい曲だ。ジャケット写真にも、そのイメージ通り、先日、バハマへ旅行した際に、撮影したものが使われている。(中略)
明菜の新曲には、曲調にもジャケットの写真にも、復帰第1作にふさわしい、明るさと元気さが満ち満ちている。ただ、ひとつだけ意外だったのは、作詞作曲者が、どちらも、当初から噂されていた”候補者”とは違ったこと。井上陽水、山下達郎・竹内まりや夫妻、それに坂本龍一・・・そして、これらの人たちの中には、直前まで「有力」といわれていた人もいたが、実際には、そのいずれでもなかった。(中略)
作曲の和泉氏は、TUTUBEの「サマー・シティ」のアレンジをしたり、明菜の前作「LIAR」を作曲したりしているから、必ずしもありえない線ではない。

しかし、作詞家はまったく聞いたことのない名前でビックリ。それもそのはず。なにしろ、彼女はプロの作詞家として作品を発表するのは、これが初めてなのだ。

彼女は九州・福岡県の出身で、今年23歳。作詞家としては素人に近くても、歌手としてなら立派なプロ。最初にデビューしたのが、福岡県に在学中だった15歳のとき、女子高生ばかり6人で結成した元祖プリプリみたいな「白雪姫BAND」というバンドで、ボーカルを担当していた。3年間、そのバンドで活躍を続け、解散後、88年に、今度はソロとして、再デビュー。この3月には、テイチクレコードからアルバムも出している。ただ、歌手としては、必ずしも恵まれているとはいえないようで、最近では本業のかたわら、あるテレビの制作会社で電話番のアルバイトもしているという。いわば歌手兼フリーター。その彼女が、明菜の復帰を機に、突然作詞家として脚光を浴びることになったのである。

明菜の詞を書くことになったキカッケは、彼女の言葉によれば、「エーギョー」だった。(略)(昨年秋から)いくつか作品ができると、大胆にも彼女はそれを、明菜の担当ディレクターである藤倉克己さんに見せに行った。つまり「エーギョー」に行ったのである。「明菜さんって、とっても気になる女性なんです。あの一途な気持ち、私もそうですから、よくわかるんです。だから私の書いた詞を歌ってもらえたらと思ったら、そのまんま、電話番号帳で調べて約束もせずにレコード会社におしかけちゃったんです。」と、笑う彼女。しかし、世の中、そんな おいしい話ばかりあるわけではない。最初の作品はあえなくボツ。けれども、藤倉ディレクターには、何かしら心にひっかかるものがあったようで、今年になって、たまたまワーナー・パイオニアレコードへ遊びに行くと、今度は向こうから「明菜の新曲の詞を書いてみない?」と、声をかけられた。そこで彼女は明菜をイメージして「激愛」をテーマにした作品を書き上げるが、またしてもボツ。藤倉ディレクターの判断は、「いままでの明菜を意識しすぎ。その意識を取り払って書いてほしい」というものだった。

彼女は、「今度こそ」と意を決して、九州の実家に戻り、24時間、ほとんど不眠不休で1編の詞を書きあげる。それが「DEAR FRIEND」だった。

「自分の夢が うまくいかなくて、元気のない友達がいる。その友達に、手紙で『もう1回頑張ってみなよ』『気楽にやってみなよ』と呼びかけるのが詞の内容です。書いている間は、「ニュートラルな気持ち」を持ち続けるようにしました。」

藤倉ディレクターから、うれしい知らせが もたらされたのは、明菜がN・Yへ行く直前の4月末。「明菜が、とても気に入っている」というのだ。5月末には、レコーディング中のN・Yから国際電話。今度は
「とても いい感じで仕上がっている。明菜本人も、すごくノッてるヨ」というのだ。彼女は、天にも昇るような気分になった。

こうして、新進作詞家・伊東真由美が誕生した。(中略)考えてみれば、復帰第1作に彼女のような新人の作品を選んだということ自体、明菜の、これに賭ける意欲を表すものかもしれない。事務所もスタッフも「一からやり直す」ことをテーマにしたように、明菜は自分が歌う世界にも、未知の、だれも踏んでいない雪野原のような、新しさと新鮮さを求めたのだろう。(略)明菜の復帰は、今度こそ、本当の秒読み段階に入った!』

約1年という、明菜にとっては、非常に長期の休養期間からの復帰である。あの時は、どんな駄作のシングルでも、「飢餓状態」だった明菜ファンならば、購入したであろう。しかし、明菜&明菜サイドは、たった1つクリアしなければならない「テーマ」があった。それは・・・『新生』。「いろいろあったけれども、明菜は元気になった。生まれ変わった」

この1点のみを、世間にアピールしなければならない必然性があったのだ。これは、中森明菜の『歌手生命』を賭けた・・・と言っても過言ではない。遠く離れた所から、小さい針に糸を通すような、非常に難しいことだったと思う。

ただ明るい歌だけでもダメ。「今までとは違う、NEW明菜」をアピールしなくてはならない。当然、ワーナー、明菜スタッフも、沢山の大物アーティストに新曲依頼の声をかけたようだ。噂の域を出ないが、ユーミンにも打診したとか。

だが、どの大物アーティストの作品も、明菜は満足しなかった。(結果的に)結局は前作「LIAR」の作曲家(ランクとしては、Bランク級)と、作詞は、シロウト同然の作家を起用した。これが中森明菜の凄い所だ。

話は少し それるが、MCAビクターに移籍して、4年ぶりのオリジナル・アルバムとなった 「アンバランス・バランス」の1曲目。「永遠の扉」も、新人作家、夏野芹子を起用した。

明菜は、「有名な作家=すぐれた作品を作る」という図式を、大胆にも くつがえし 必ずしも、そうではない事を証明したアーティストなのだ。

DEAR FRIEND」は、オリコン・チャートで初登場1位を当然のごとく獲得。20作目の1位。年間チャート1位の曲となる、「おどるポンポコリン」とデッド・ヒートをくりひろげ、1度3位にまで落ちた順位を、再び1位に返り咲かせる・・という動きも見せた。(第1週目で15万枚以上のセールス。DESIREの約12万枚を更新)年間チャートでも6位。約57万枚の大ヒットに。90年代以降では、最高のセールスの明菜作品(シングル)となった。

89年7月の「事件」は日本中を騒がせた衝撃だった。そして、90年の「復帰」も、日本中を『明菜旋風』が吹き荒れた。

2007年の現在、今は、そんな過去を懐かしく思う。今ならば、ニュートラルな気分で「DEAR FRIEND」を聴ける自分がいる。

 

'99.11.16 東京国際フォーラム、「台湾大地震 ハート・エイド」

ZAKZAK '99.11.17

「デビュー以来、明るいメッセージの歌が少なくて、人を頭にこさせたり、暗くするような歌ばかり。でも唯一この歌は、(台湾の方に)元気を与えてさしあげられる」と紹介した上で、平成2年のシングル「Dear Friend」を歌った。

歌い終えてもまるで“引退コンサート”のように「やめないで!」と あちこちから心配する声が飛んだため、司会の福留功男氏が気遣って、「この歌声をまだまだ聞きたいですよね。みなさんで、『がんばれ、明菜』と言おう」とシュプレヒコール。この瞬間だけ台湾エイドから一転、“明菜エイド”に。との報道が為された。

 

今再び、改めて、この記事を明菜に届けたい。。

今も同じ気持ちだよ、と。